その事に気づかせていただいた先生の話をさせていただきます。
その先生は経絡治療を専門とする鍼灸師です。
先生は治療がうまくいったときには患者の体が輝いて見えると言われました。当時の私にはまったく意味不明でした。なぜなら、その先生は全盲の方だったからです。
当然、目で見ていたわけではありません。五感以外のなにか、で感じ取っていたのでしょう。
では、気や経絡を感覚化するために、ある特定の感覚をシステム化して修得しなければ、気や経絡を感じ取ることができないのかと言われると、そうではないと思います。
一言で言えば、特定の観察方法や、技術が唯一の方法ではないということです。
実際にいろいろな分野の先生方が、さまざまな方法で気を感知する技術を修得されています。
気の感知技術が多種多様にわたる理由として、人は野生動物と違い、生存技術に関する本能情報が退化してしまっているということが考えられます。
甲野善紀という武術の先生にお会いした時、人は二足歩行という不安定性の中に安定を求めている、そこから武術の技法が発展しているのだというような事をお聞きしたことがあります。
しかし、よくよく考えてみますと人の不安定性は二足歩行のみならず、多岐にわたっていることが考えられます。
物理的な不安定性のほかに本能という閉鎖回路から自由であるという不安定性、これらが逆に人に文化や技術の発達を促しています。
東洋の文化が自然に身を委ねるという基本思想をもったのは不安定性の中に安定性をもとめた結果かもしれません。そこから心身不二という観点が生まれ、それを実際の体の感覚として確認するために丹田や気を発明したのではないかということです。
したがって、気や経絡も人為的につくられた記号という一面をもっています。ですから気の感じ方、言い換えるなら自然への取り組み方は個人個人の感性によって千差万別であり、それぞれが自己の感覚を頼りにつくりあげていくしかないのではないでしょうか。
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