気を感知する望診法の真実


古代に存在した「望診法」は

ダイレクトに気と経絡を見る技術だったのではないかと考えています。

 

3000年以上前の診察法の言葉に「望んで知る、これ神」という言葉があります。

 

この言葉は現代では、見ただけで診断ができるのは神様のようなものだ、という意味に解釈されています。

 

しかし、この言葉がつくられた(約3000年前)当時の「神」という漢字の意味は現代のような神様仏様のような意味ではなく、

神=自然(の気の流れ)という意味であったのです。

 

つまり、「望んで知る、これ神」の意味は、まず望診で気の流れを見ましょう、という意味であったのだと思います。

 

ですから、望診は診察手順の第1にくるのです。

 

四診合算という言葉があります。

 

望診、聞診、問診、切診の総合評価で証決定をしましょうという意味にとられています。

 

ですが、古代の望診のあり方を考えると、四診合算ではなくて、四診はその手順どおりに並んでいるだけです。

 

最初に望診で気の流れを把握しましょう、次に聞きましょう(聞診)、問いましょう(問診)、切(触診)してみましょう、と続いていくのす。

 

診察の手順としてまず望診ありきで、ここで患者の体のバランスが自然な状態(元の健康な状態)からどれくらい逸脱していて、どこに異常があり、どこが治療のポイントかを把握してしまいましょう、とうのが望診なのです。

 

ですから、望診というのは、神業だという意味ではなく、通常の診察手段として、最初に来るべきものなのだと考えております。

 

気や経絡は存在しなかった!?

鍼灸師を目指した目標は経絡と経穴を自在に操り、人体の気をコントロールすることでした。

 

東洋医学を学べば、それができると信じていたんです。

 

ところが、鍼灸学校に入って半年もかからずに最初の現実につきあたります。

 

まず、「気」の定義が無かったのです。

 

いや、あるよ。と言われる方もいるでしょうか。

 

確かに、その流派や技芸の中でだけ通用する定義はありました。

 

しかし、流はの外にいくと通用しない。

 

世界共通の定義は、いまも存在してないんです。

 

それどころか、気も経絡もあるのか、ないのかすら証明できていない!

 

 

経絡治療の先生に質問したことがあります。

 

「先生は気や経絡を実感されているんですか?どうやったらそれを証明できますか?」

 

先生の答えは、

 

「あるという証明はできない。ただ、あると信じなければ経絡治療は成り立たないよ」

 

それが先生の答えでした。

 

それどころか、鍼灸学校の先生のなかには経絡は「無い」と言い切る方もいる始末。

 

信じるって、それはもう科学でも学術的思考でもなく、単なる宗教じゃないですか。

 

それが鍼灸、東洋医学の現実なんだと、知らされました。

 

 

 

そこからです。

 

鍼灸、気と経絡の探求を改めてしようと思ったのは。

 

ただ、みなさんにも正しく知って欲しいのですが、現時点でも誰も気と経絡の存在を証明も定義もできていません。

 

これは紛れもない事実です。

 

まずはその事実を認識しない限り、経絡宗教からは脱することはできないと思います。

 

 

古流整体に伝承される「見の技法」

まずは気を扱う気功やヨガ、静座法、武道などを探求して回りました。

 

結論から言いますと、やはり気の定義がそれぞれバラバラです。

 

そしてどうも武道でいう気と、鍼灸医学で言う気とは違うもののようでした。

 

その辺りのことは割愛させていただきますが、それでも一つ大きな収穫がありました。

 

武道を通じて知り合った古流整体の先生が施術中にこう言われたです。

 

「気が通っていないと、本当の整復はできないね」

 

えっ!いきなり気のお話ですか?

 

それまで、なんの関係もないと思っていた整体の先生でしたが、急に興味が湧いてきました。

 

そこで教えていただいたのが「見の技法」です。

 

これはその後の気を見る望診法につながる技術でした。

 

残念ながら「見の技法」で見ているのは気ではなく、体の歪みや筋肉の強張りでしたが、その考え方は気を見る望診法と根本は同じです。

 

さて、「見の技法」とはなにか?

 

それは姿見検査(立位、座位、仰臥位、伏臥位)において、見ることで体の歪み、矯正の要所となるポイントを見分ける技術です。

 

見の技術ではこのように感知されます

 

 

そこで見えるのは鍼灸でいうところの経筋です。

 

ですが、これも視力で見えているのではなく五感以外のなにかで感じ取っているのです。

 

そして、この違和感が消えない限り、施術がうまくいったとは言えないということです。

 

もちろん私も練習し、ある程度感知できるようになりました。

 

ただ、これはこれで、感知できるようになったことは嬉しかったのですが、これがのちのち気滞の望診の練習のときには気よりも経筋のほうを強く感知してしまうという癖がなかなか抜けず、苦労することになるのですがそれは後の話。

 

患者の体が輝いて見える全盲の鍼灸師

鍼灸学校を卒業したあとの話ですが、とある経絡治療団体宮城県の支部長をされていた先生の施術を見学する機会がありました。

 

赤門鍼灸は仙台市にありましたので、じつは学生の頃からその先生の存在を知ってはいたのですが、機会がなかったのです。

 

その先生は全盲の方です。

 

ところが、施術がうまくいくと患者の体が輝いて見えるというのです。

 

もちろん視力でみているわけではありません。

 

おそらくその先生も視力ではない、五感以外のなにか、を使って感じ取っていたのでしょう。

 

全身が輝いて見えるというのは比喩でしょうけれども、そう感じたのは事実ですから。

 

私の中では先の整体の先生、今度の全盲の鍼灸の先生の実体験を通じて、視力ではない、五感以外のなにかで患者の体の違和感(それが気かどうかはまだわかりませんが)を感じ取る技術は確かにあるのだ、と思いました。

 

気や経絡が存在するかどうかはまだ証明できませんが、

 

それらに準ずる「何か」があり、それを消すことで症状が改善する、そしてそれが再現性があるのであれば、学術論法によってなんらかのシステム(経絡システム)が存在することが仮定される。

 

私はまったくの手探り状態のなかで、たった一つの手がかりを見つけたような気になり、ひとり喜んでいました。

 

そのすぐ後に気や経絡をダイレクトに感知できるという医師の存在を知ったのです。

 

その医師は鹿児島で個人医院を開業されているという外科医でした。

 

私は、早速見学を申し込みました。

 

 

気滞が見えるという医師は東洋医学を全否定された

その先生の話を聞き、さっそく連絡をとって見学させていただきました。初の鹿児島、季節は真夏!日差しが肌に突き刺さるようでした。

 

先生の診察方法はとんでもなく変わっています。

 

まず患者を立位で望診(立位がとれない方はベッドで)します。

 

そして気滞を感知し、その気滞を消去する治療法を選択するんです。

 

ときに鍼灸、ときに漢方、西洋薬剤を使うこともあり、まさに自由自在。

 

最初、かなり奇異に見えた診察方法でしたが、これが本当の望診の世界なんじゃないかと直感的に思いました。

 

どんな風に見えるのか?

 

それは五感以外の原初感覚を用いて感知する世界なので、図に示すことは難しいのですが、あえて図に表すとこんな感じです。

 

 

私には驚きの世界です。

 

医師や鍼灸師を中心とした勉強会があるということで、さっそく参加させていただきました。

 

そこで学んだことは、

 

人体はなんらかの傷病を患うと、それを治癒するための情報として気滞を発生させる
経穴はその気滞を消す情報として、活性化する。したがって平常時は経穴は不活性のものであって働いていない
気滞を消去する方法は経穴のみによらず、漢方や整体でも可能である

 

などなど、たくさんありすぎて私はパニック状態でしたが、とにかく私は望診法の入り口に立つことができたのだと思いました。

 

そして、それは気の世界を探求するための必須の技術となります。

 

それはなににも勝る喜びでした。

 

3人の経絡否定派

ところで、ここでもう一人の鍼灸の先生をご紹介させてください。

 

その先生は経絡を完全否定される先生で、星状神経節刺鍼法の研究で有名な先生です。

 

経絡の存在を否定する立場におられましたが、では経絡のことを勉強しなかったのかというと、そうではないのです。

 

東洋医学、経絡治療を学びそれを実践してみた結果、経絡学説は科学的に信頼できない、と結論づけられたのです。

 

そして、鍼灸の治効理論を別な方向から探ろうとされていました。

 

じつは、そういった姿勢は先の患者が輝いて見える全盲の鍼灸師、鹿児島の外科医のお二人と共通しているのです。

 

この3人の先生はそれぞれ独特なアプローチ法をとられていますが、経絡の勉強を徹底してやった結果、既存の経絡説を信用できないと否定し、独自の研究をされているというという点では同じなのです。

 

鹿児島の医師の書庫を見せていただいたことがあります。

 

そこには信じられないくらいの量の東洋医学関連の文献が山積みにされていました。

 

ここまで勉強し、実践し、その結果経絡を盲目的に信じるという行為に疑問をもち、独自研究をおこなった勇敢な研究者です。

 

一人は純粋に既存科学からアプローチし、

 

一人は自己の感覚を磨き、

 

一人は新たな気と経絡の仮説を打ち立てました。

 

私はいま、その恩恵にあずかっています。

 

気と経絡はどうやって発見されたのか?

※以下は仮説です

 

気はもともと人本来がもっている原初感覚によって感知されていた、というものです。

 

気の世界というものがあるのなら、人に現れる経絡や経穴は「気の現象」のひとつであり、

当然、それがすべてではありません。

 

だから、武術の気と鍼灸の気は違っていて当然であり、

気が見せる顔には様々なものがある、ということです。

 

とするなら、ときどき気を感覚化している人が存在するのも納得ができます。

 

もともと人が持っていた原初感覚によって感知してるので、

なんらかの訓練をしたわけでもなく、また、

その人にしかできない特殊な能力を身に着けているわけでもないからです。

 

その感覚をもとにして発見されたのが気と経絡であるのなら、

東洋医学は単なる経験医学ではないということになります。

 

気や経絡が生命現象の一つであるなら、それは同じ生命を持つヒトにしか感知できません。

 

では、そのような能力がなぜ継承されなかったのか、

しなかったのではなく、できなかったのだと思われます。

 

それは次のような理由ではないでしょうか。

 

達人と弟子

五感で感じ取れる見える世界を現象界と言います。対して、見えない世界のことを潜象界といいます。

 

潜象界がイコール気の世界となるのかどうかは分かりませんが、

私は武道や気功、さまざまな気を扱う流派でそれぞれ定義されている「気」を包括しているものと考えています。

 

ただ、見えない世界の動きは数値にも表すことができませんから、

その情報を他人と共有することができないのです。

 

過去、多くの達人技をその弟子が伝承できなかったのは、そういう理由によるのだと思います。

 

達人もその「気」の世界のことを伝える術がありませんでした。

 

五感以外の原初感覚で感知するほかない気のことを言葉では表現しきれず、

弟子の習熟度にあわせて例え話をする以外に方法がありません。

 

よく達人と弟子の会話で、弟子が奥義を問うと、師匠はただ円を示しただけだとかいう話が逸話として残っていますが、そこに描かれた円には、その時のその弟子以外には、なんの意味もありません。

 

例え話にすぎないのです。

 

ですが、その例え話や逸話がいつの間にか独り歩きするようになります。

 

そして、その例え話が様々に組み合わされて、不思議な話が作り出されて行きます。

 

すると、それはもう例え話でもなんでもなく、単なる空理空論でしかありません。

 

それが、東洋医学の世界でも起きているのです。

 

経絡の迷路はもう出口が見つからない

※以下は一つの仮説です

 

そもそも気も経絡もその存在は五感では捉えられないものです。

 

ですから、原初感覚で気を感覚化できた者にしか、気を実感としてわからず、

使いこなすこともできませんでした。

 

しかし、経絡の出現には一定のパターンがあり、またその出現頻度もある程度の確率がありました。

 

そこで、それらの出現ポイントを示し(=経穴)、それらを結んだライン(=経絡)が描かれました。

 

そして、こういった症状ならこのポイント(経穴)をという指示も残されたのでしょう。

 

胃の症状なら足三里、肝虚と名付けられた一連の症状なら太衝などというように。

 

そこまでなら、経験医療として成立するかもしれません。

 

しかし、古代の学者はそこに理論をつくります。

それが積み重なって経絡学説が形作られて行きます。

 

ですが、気を感覚として捉えらえれないものにとっても、また原初感覚によって気を捉えられるものにとっても、

気の世界のことを言語化するのは非常に難しい作業だったのです。

 

先の達人と同じです。

 

だから同じ現象を説明しても、人によって違う表現をします。

が、気が見えないものにとってはそれが同一の現象を表現したものだとは分かりません。

 

だから、同じことなのに、まったく別な現象として取り扱われてしまいます。

それが数十年、数百年のちになると、もう訳が分かりません。

 

そして、それらの矛盾を埋めるために新たな仮説が考え出されます。

つまり、仮説と仮説を組み合わせて、まったくの空論を生み出すことになったのです。

 

これが、中医学や経絡学説の迷路です。

 

こうなってくると、どれが本当だったのか、どれが同じ現象を表現した仮説だったのか、

もう分かりません。

 

過去の文献が正しいかどうかは、もはやいくら文字を追ってもわかりません。

 

自分が気の感知能力を修得して一つ一つ検証していくしかないのです。

 

 

気を感知することで激変する世界観

ある日のことです。

 

肝臓の辺りに気滞を感知しました。そこから切診して、経絡をたどり反応のでている(活性化している)経穴までたどっていくと、太衝穴にたどりつきます。

 

なるほど、だから肝経のツボなんだ、と喜びました。はじめて経穴を実感を伴って取穴できたからです。

 

ところが、臨床を重ねるうちに肝虚でも肝の経穴が反応点として取穴できるのは、せいぜい2割程度だということがわかってきました。

 

通常の四診で導き出される治療点でもかなりの高確率で反応点(活性化経穴)にたどり着くことはできます。

しかし、逆に言えば8割はそうではないのです。

 

なのに、なぜか治っている?

 

また施術家によって、まったく違う証(しょう:病名のようなもの)を見立てても、治っている?

 

このことを師匠にたずねてみました。

 

すると、自然治癒力があるからね、と一言。

 

「だから、1~2割は確かな手ごたえがあって、すぱっと鍼が効くでしょう?

でも、残りはだらだらと治るのに時間がかかってしまう。

 

それは可もなく不可もない治療になっていて、結局自然治癒力が治しているんだ。

 

なるほど、だからなのか!私は一気に世界観が変わりました。

 

いままでの疑問点が一気に解決していくのを実感しました。

 

「人によって、診断が一致しない、違う治療をしても良くなっていくのはなぜ?」

 

「脈診の名人と言われている先生たちでも、脈による診断は一致しないのはなぜ?」

 

「ただの刺激鍼でも、経絡治療でも同じように治る場合があるのはなぜ?」

 

「スポーツ外傷でも接触鍼でかなりの効果を発揮するのはなぜ?」

 

「整体で経絡が整うのはなぜ?」

 

「整体において整復の角度と方向性をどうやってみつけるんだろう?」

 

「相手の立ち姿を見ただけで歪みのポイントがわかるにはどうしたらいい?」

 

「なんど整体しても歪みがとれないのはなぜ?」

 

 

いま、新しい気の世界という未知の領域が広がったのです。

 

 

気とは観察者によって見せる姿が違う!

とある実技講習のときに柔道整復師が患者のお尻をみて、

骨盤、仙腸関節、細かな殿筋群の解説をしているのとみて、鍼灸家が一言、

「僕にはお尻はただの肉の塊にしか見えないな~」

 

これは例え話なのですが、このように、その人が学んだ知識や技術によって同じ体や同じ症状でも

見え方がまったく違うということがあります。

 

それと同じように、気感の修得レベルによっては、

気の見え方が違うのではないかと考えました。

 

つまり、同じ患者をみても、その気の見え方は観察者によって違う。

 

するといろんな矛盾に説明がつくのです。

 

同じ証(あかし、経絡治療でいう病名)でも、施術家によって正反対の証がたつことがある。

そして、そのどちらの治療法も効果を発揮する。

 

それが不思議でなりませんでしたが、そう考えると説明がつくのです。

 

一つ一つ気の世界の新しい発見があります。

ですが、この気の世界(潜象界)はあまりに広く、私はほんの入り口に立っているにすぎません。

 

この気の世界、望診法の世界をみなさんも体験してみませんか。

 

 

気と経絡の深奥なる世界へ

経絡や気は、経絡治療家にとってその治療の根幹をなす大切なものですが、そのいずれも目に見えることもなく、触れることもできないために、それらの存在を実体としてとらえることは非常に難しいものです。

 

気や経絡に関しては多くの解釈を生みましたが、現在でもその存在については、なんらの証明もされていません。

 

そして、その存在を証明できない以上、経絡を「ある」とすることは非科学的であるという意見が圧倒的多数を占めています。

 

ですが、「ある」と「ない」は対等ではありません。

 

現状のまま、ただ存在の有無を問うことは無意味であるということです。

 

さて、私自身にも気や経絡に関して、たとえ医療に関する事項に限ったとしても、その全容を到底整理することなどできませんし、経絡を知識として知ってはいても、実感をともなうものではありません。

 

しかし、経絡とはなにかということを考えますと、これだけ解剖しても最新の観測機器を用いても、なにもでてこないわけですから、まず実体を伴ったものではないのではないかと考えられます。

 

ですが、なにかが存在する。

 

そしてそれは生きた人体のなかに存在する。ならば、それを一種の生命現象の表れだと仮定します。

 

経絡を一種の生命現象だと仮定するならば、生命は生命によってのみ認識されるわけですから、経絡を感知するのはあくまでも人、つまり観察者自身でなければならないと考えます。

 

しかし、現状(通常の五感)では「気」の存在を感知することはできないわけですから、その観察のためには自己の感覚を変化させていくことが必要であると考えました。

 

それは直感的な経験に頼らない、という自然科学を一方におきながら、同時にもう一方に直感的、記述的な科学、直接体験を基盤におく一元論的な自然感も必要であるということです。

 

私たちがある現象を観察する場合の第一段階は「感覚にあらわれる現象」といってもよいかと思います。

 

この「感覚」という意味は、単に外界と自身を仲介する外部感覚だけではなく、直接の事実を知覚するための意識までも含めた身体的、思考的、精神的なものすべてを指しています。

 

そこで内的体験を知覚する能力としての内部感覚が必要となるのです。

 

それが気と経絡を把握する第1歩となると考えております。

 

我々の環境は変えられない、同じ空間の中で、太陽の光と空気に包まれて生きています。

 

ですが、その環境の認識の仕方は人それぞれで違う、というのが現在の生物学の考えです。

 

ところで、客観的な観察を行なっていると言える行為はすべて、観察する個人の意識と分けて考えることは難しいという考え方があります。

 

その行為は直接的には個人の外側では決して起きることはありませんし、また個人の領域を超えることも、外側にある現実の領域を把握することも全くできないという考え方です。

 

つまり観察の主体である観察者は、観察の対象から独立して存在できないということです。

 

 

これは直接目の前にある現実の経験が自己に内在するものではないとしたら、人はそれを認識することはできないということです。

すると、気や経絡に関しても同じことが言えると思います。

 

簡単に言えば、自身が気や経絡を何らかの方法で、実感することがまず必要ということです。問題はその方法なのです。

 

しかし、それができれば、気の正体がなになのかはともかく、自己の身体外の気や経絡の観察(感知)も可能になるはずです。

 

ところで経絡を感知するということとは別の目的で、私が取り組んできた事の一つに体の重心線と中心線を意識化し、動き(日常、非日常の不安定な動きを含める)の中で使いこなす、というテーマがありました。その方法としては主に武道、古武道の稽古を参考にしておりました。

 

このテーマへの取り組みは当初の目的とは別に私自身の内部感覚を敏感にすると同時に他者に対して、以前とは別のある種の違和感を生じるようになりました。

 

違和感の感じ方は個々によって若干異なりますが、大抵は体のある部分が「気にかかる」という形で現れます。

 

その違和感が存在する部位は通常の四診によって得られる情報から導き出される異常(変動)経絡と一致している例が多いことに気がつきました。

 

この感覚は後日、気や経絡を感知しているのではないということが判明しました。これはまだ「気」と呼べるレベルのものではなく、経筋など物理的な器官を感知しているものと思われます。

 

これはどういうことかと言いますと、例えばどのような芸事であれ、ある程度のレベルに達した場合、同門の他の方のレベルや好、不調がある程度、見ただけでも、瞬間的に判断できるということに近いかと思います。

 

その時の判断というのは、自己の中にその芸事の情報技術を意識を含めた全身で把握しているからこそできるわけであり、体全体で感じ取ることができるのだと思います。

 

つまり自分の中に重心線や中心線が意識化できれば、他人の重心線や中心線のズレなどを鋭敏に察知できるということです。

「気」にも同じことが言えるのではないでしょうか。

 

もちろん、中心線と気とは違うのもですからこれによって「気」や経絡が実感できるとは言えませんが、この方向性で練習を進めれば、経絡を実感できるその一端が開かれるのではないかと期待しております。

 

さて、ここで大切なことは五感で感じるのではなく、体全体で感じる必要があるということです。

 

その事に気づかせていただいた先生が先にご紹介させていただいた、患者の体が輝いて見えると言われた全盲の鍼灸師です。

 

先生は治療がうまくいったときには患者の体が輝いて見えると言われました。

 

当然、目で見ていたわけではありません。五感以外のなにか、で感じ取っていたのでしょう。

 

では、気や経絡を感覚化するために、ある特定の感覚をシステム化して修得しなければ、気や経絡を感じ取ることができないのかと言われると、そうではないと思います。

 

一言で言えば、特定の観察方法や、技術が唯一の方法ではないということです。

 

実際にいろいろな分野の先生方が、さまざまな方法で気を感知する技術を修得されています。

 

気の感知技術が多種多様にわたる理由として、人は野生動物と違い、生存技術に関する本能情報が退化してしまっているということが考えられます。

 

甲野善紀という武術の先生にお会いした時、人は二足歩行という不安定性の中に安定を求めている、そこから武術の技法が発展しているのだというような事をお聞きしたことがあります。

しかし、よくよく考えてみますと人の不安定性は二足歩行のみならず、多岐にわたっていることが考えられます。

 

物理的な不安定性のほかに本能という閉鎖回路から自由であるという不安定性、これらが逆に人に文化や技術の発達を促しています。

 

東洋の文化が自然に身を委ねるという基本思想をもったのは不安定性の中に安定性をもとめた結果かもしれません。そこから心身不二という観点が生まれ、それを実際の体の感覚として確認するために丹田や気を発明したのではないかということです。

 

したがって、気や経絡も人為的につくられた記号という一面をもっています。ですから気の感じ方、言い換えるなら自然への取り組み方は個人個人の感性によって千差万別であり、それぞれが自己の感覚を頼りにつくりあげていくしかないのではないでしょうか。

 

気流診講座では、あなたの感性を磨き、原初感覚をよみがえらせ、気の世界を探求するための手段として「気を感知する技術・気流診」を提供させていただきます。

 

望診法講座「気流診」のご案内

古流望診術「気流診」の講座のご案内です。

 

講座は専用サイトで、動画教材を使用して学習していただきます。

 

PDFテキスト17ページ 動画9時間43分

 

 

講座費用は36000円です

望診法講座








※ご質問などメールにてサポートさせていただきます。サポート期間は購入後3か月間とさせていただきます。

 

※教材購入者のかたには不定期講習会への参加権があります(無料です)。ぜひご活用ください。

 

 

⇒講座の詳細はこちらをクリック!

 

 

メルマガ登録フォーム

もし、この気の世界に興味があれば、古流望診法「気流診」のメルマガ登録してください。

 

古流望診法の世界をご紹介させていただきます。

 

限定で、望診法基礎講座をプレゼントさせていただきます。

 

この望診法に少しでも多くの方に触れていただきたいと思います。

ちょっと興味がある・・くらいの感じでお気軽に見てていただければと思います。

 

 

登録はこちらから

 

古流望診法「気流診メルマガ登録フォーム」

 

望診法フルサポート講座

講座費用は96000円です

 

実施講習会(不定期開催)ごとに追加動画を追加させていただきますが、追加費用は無料です。

 

サポートは5年間、メールにて無制限に質問をお受けいたします。

 

 

※申し訳ありません。現在、フルサポートコースは定員いっぱいのため受付を停止させていただいております。


古流望診法メルマガ登録フォーム

古流望診法「気流診」のメルマガにご登録ください。

限定で、望診法基礎講座をプレゼントさせていただきます。

整体、鍼灸、指圧など、施術にかかわっているすべてのかたへ。

ちょっと興味がある・・くらいの感じでお気軽に見てていただければと思います。

 

古流望診法メルマガ登録フォーム

管理者プロフィール

こんにちは。Katuki Reikoと申します。

年齢は言えませんが、鍼灸師歴40年になります(笑)

私は赤門鍼灸専門学校を卒業後、ある経絡治療団体の学術部長を経験させていただき、その後、気と経絡の研究会で代表(三代目)を務めさせていただきました。

2018年秋にそろそろ引退?しようかな~と考えています。

さて、望診法とは顔の色や皮膚の状態を見て判断する視診とは少し違うものです。

本来の望診法は気と経絡をダイレクトに感知する技術なのです。

そのことを一人でも多くの方に伝えたいと願っております。

このサイトがあなたのお役にたてますように。

REiko

最近の投稿
2018年10月
« 7月    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  
カテゴリー

ページの先頭へ