望診で気を感知することで激変する世界観
望診法を知らないということは治療家にとって、どれほどの損失をまねくことか。
あまり知られていないことですが、
皮膚の色や状態などを見る現代式望診の他に、古伝の望診法が存在します。
四診の冒頭にくる古伝望診は、まず「気」の流れに異常があるかどうかを診ます。
それが本来あった望診法なのです。
当サイトではその古伝の望診法を紹介させていただきます。
はじめまして、現代表の勝木です。
さて、私が最初に勉強したのは鍼灸という東洋医学でした。
どんな施術体系(整体、カイロ、オステオパシーetc)でも、そこには診断のための判断基準、施術効果の判定基準が存在します。
鍼灸にも経絡という判断基準が存在するものと思っていました。
しかし、実際に学び始めると「気」や「経絡」は存在しなかったのです。
いや言葉のうえでは存在していましたが、それらを明確に示せる先生はいませんでした。
でも、本当にないのなら伝統医学としてこんなに長く継承されるはずもありません。
気や経絡を感知する方法はあるはずなのです。
それが分かれば、気や経絡の異常があるかどうか、それが正常に戻ったかどうかが施術の判断基準となります。
そこから、気を感知する技術の探求が始まりました。
脈診、腹診という一般的な診断技術からはいり、最終的にたどり着いたのが「古流の望診法」です。
それは気と経絡をダイレクトに感知する技術でした。
診断・施術は簡単です。
気滞(経絡の異常)があるかないか?
あれば解消する(鍼灸、漢方、整体、マッサージなど施術方法は何でもよい)。
気滞が消えれば施術終了!
いたってシンプルな施術です。
ここでは、その気や経絡を感知する技術の修得を目指します。
あなたも気滞を感知する、それを解消するという超シンプルな感覚を修得してみませんか?
整体を学んでいた頃、体の歪みや筋肉の緊張といったものが判断基準でした。
それが気や経絡に変わっただけでしょう?と言われるかもしれませんが、少し違います。
体の五感で感じられる歪み、いや脈診も含めて、それらは現象界でのできごとです。
対して、気や経絡というものは潜象界のできごとなんです。
ですから、気滞が無いということは経絡治療の対象にはなりませんが、現象界における施術対象にはなるのです。
逆に現象界的なアプローチに限界があっても、経絡的には施術方法がある場合もあります。
また「気滞がある」=自然治癒力が正常に働いていないと言い換えても良いかもしれません。
ですから同じような腰痛、歪みに見えても、さらに気滞がある場合と、ない場合では治り方にかなり差がでるということです。
そもそも「気」や「経絡」にはなんの興味も無い、というかたも多くおられます。
いや、そういう方のほうが多いのでしょう。
ですが、気の世界は潜象界といって、現象世界とは表裏一体の別世界です。
つまり「気の世界」はこの世の半分なんです。
現象界は目で見えている世界。気の世界は潜んで見えない世界。
両者は表裏一体の存在で、気の世界を知らないことは片手落ちになるのではないでしょうか。
実際に目に見える世界、数値で表せる世界つまり現象界における理屈、理論ではどうしても説明がつかない事象があります。
東洋医学、鍼灸はもちろん、整体の世界にもです。
ですから、その気の世界が感知できると、世界観、治療を変えざるをえません。
経絡治療をされている方は、生きた経絡がそのまま見えるわけですから、診断施術に大きな変化をもたらします。
整体治療をされている方にとっても気の世界はその治療方法を根底からくつがえすほどの衝撃を与えるかもしれません。
気の感知技術、古伝の望診法とは、そういった技術なのです。
経絡の異常を把握する技術として「望聞問切」がありますが、望診は「望んでこれを知る、これ神」と言われています。
その意味を今まで私は、視診だけで経絡の異常を知ることができるのは神技だ、と解釈していました。
鍼灸学校でもそのように習いましたしね。
ですが、おそらく間違いではないでしょうか。
現代では「神」といえば、神様仏様ですが、この言葉がつくられた当時は「神」=自然(の気の流れ)という意味でした。
つまり現代とでは「神」という漢字のもつ意味が違うのです。
ですから「望んで知る、これ神」の意味は「まずは望診で気の流れを把握しましょう」という意味だと思うようになりました。
東洋医学の四診とはもともと気の異常を判断するための診察法です。
であるなら、最初に経絡や気の異常を把握する手順としての気を見る望診ありきなのです。
そして望診で気の流れを把握した後に次のステップとして、
その気滞に対する方剤があっているかどうかを体に聞く(聞診)、
次にその方剤を組み合わせた処方(施術)が正しいかどうか問う(問診)、
最後に異常反応(経穴の反応)が消えているかどうか切経してみましょう(切診)、
と続くのではないでしょうか。
それが望聞問切ではなかったかと思うのです。
四診は四つで一つの一連の流れであってどれが欠けても成り立ちません。
ただし、それは古代の四診であって現代の四診ではありません。
古代の四診、気や経絡の動きをダイレクトに実感をもって感知する技術だったのではいでしょうか。
私が目指した目標は経絡と経穴を自在に操り、人体の気をコントロールすることでした。
東洋医学を学べば、それができると信じていたんです。
ところが、鍼灸学校に入って半年もかからずに最初の現実につきあたります。
まず、「気」の定義が無かったのです。
いや、あるよ。と言われる方もいるでしょうか。
確かに、その流派や技芸の中でだけ通用する定義はありました。
しかし、自分の流派の外にいくと通用しない。
世界共通の定義は、いまも存在してないんです。
それどころか、気も経絡もあるのか、ないのかすら証明できていない!
経絡治療の先生に質問したことがあります。
「先生は気や経絡を実感されているんですか?どうやったらそれを証明できますか?」
先生の答えは、
「あるという証明はできない。ただ、あると信じなければ経絡治療は成り立たないよ」
それが先生の答えでした。
それどころか、鍼灸学校の先生のなかには経絡は「無い」と言い切る方もいる始末。
信じるって、それはもう科学でも学術的思考でもなく、単なる宗教じゃないですか。
それが鍼灸、東洋医学の現実なんだと、知らされました。
そこからです。
鍼灸、気と経絡の探求を改めてしようと思ったのは。
ただ、みなさんにも正しく知って欲しいのですが、現時点でも誰も気と経絡の存在を証明も定義もできていません。
これは紛れもない事実です。
まずはその事実を認識しない限り、経絡宗教からは脱することはできないと思います。
経絡とは一般的には気の流れるルートであると、説明されています。
ですが、そもそも「気」とはなに?というところから疑問ですよね。
気も経絡もそれを視覚的に、もしくは数値的に存在を証明されたことは一度もないのですから。
つまり、気も経絡もいまだにあるのか、ないのか分からないものなのです。
残念ながら、それが現実なのです。
ですが、実際に経絡治療など施術に応用されており、私はこの不可思議なものに魅力を感じ鍼灸学校入学以来、気と経絡の正体、それを実感し、使いこなすことを目標としてきました。
しかし、現実には気も経絡もその実態は、あるのかないのかさえ不明のものです。
当然、使いこなすなんて雲をつかむような話です。
ただ、もしその技術を修得できたら、気を感知する技術は一生ものの財産になると思いました。
では、気の診断法として望聞問切、体感する方法として気功などさまざまな方法がありますが、それら既存の方法で本当に気や経絡が実感として体感できるでしょうか?
私にはどんなに脈診を練習しても、これが気の動きだとはっきりとは感じられませんでした。
気や経絡の存在を確かな存在として実感することが、できなかったのです。
それでもあきらめきれずに、気功や仙道、中国拳法にまでその気の姿を追い求めました。
まずは気を扱う気功やヨガ、静座法、武道などを探求して回りました。
ただ、やはり気の定義がそれぞれバラバラです。
結論から言うと、武道でいう気と、鍼灸医学で言う気とは違うもののようでした。
その辺りのことは割愛させていただきますが、それでも一つ大きな収穫がありました。
武道を通じて知り合った古流整体の先生が施術中にこう言われたです。
「気が通っていないと、本当の整復はできないね」
えっ!いきなり気のお話ですか?
それまで、なんの関係もないと思っていた整体の先生でしたが、急に興味が湧いてきました。
そこで教えていただいたのが「見の技法」です。
これはその後の気を見る望診法につながる技術でした。
残念ながら「見の技法」で見ているのは気ではなく、体の歪みや筋肉の強張りでしたが、その考え方は気を見る望診法と根本は同じです。
さて、「見の技法」とはなにか?
それは姿見検査(立位、座位、仰臥位、伏臥位)において、見ることで体の歪み、矯正の要所となるポイントを見分ける技術です。
(見の技法ではこのように感知されます)
そこで見えるのは鍼灸でいうところの経筋です。
ですが、これも視力で見えているのではなく五感以外のなにかで感じ取っているのです。
そして、この違和感が消えない限り、施術がうまくいったとは言えないということです。
もちろん私も練習し、ある程度感知できるようになりました。
ただ、これはこれで、感知できるようになったことは嬉しかったのですが、これがのちのち気滞の望診の練習のときには気よりも経筋のほうを強く感知してしまうという癖がなかなか抜けず、苦労することになるのですがそれは後の話。
関節の矯正と言っても、理屈は理解できてもいざやってみると難しいもの。
それもそのはず、実際の人体の骨・関節はブロックのような単純構造ではないからです。
しかし歪みを感知できるようになると、施術が激変します。
どう変わるのかと言いますと、矯正ポイントや矯正の方向がわかるようになるので、施術がものすごくシンプルになるのです。
※以下は仮説です
気はもともと人本来がもっている原初感覚によって感知されていた、というものです。
気の世界というものがあるのなら、人に現れる経絡や経穴は「気の現象」のひとつであり、
当然、それがすべてではありません。
だから、武術の気と鍼灸の気は違っていて当然であり、
気が見せる顔には様々なものがある、ということです。
とするなら、ときどき気を感覚化している人が存在するのも納得ができます。
もともと人が持っていた原初感覚によって感知してるので、
なんらかの訓練をしたわけでもなく、また、
その人にしかできない特殊な能力を身に着けているわけでもないからです。
その感覚をもとにして発見されたのが気と経絡であるのなら、東洋医学は単なる経験医学ではないということになります。
気や経絡が生命現象の一つであるなら、それは同じ生命を持つヒトにしか感知できません。
では、そのような能力がなぜ継承されなかったのか、
しなかったのではなく、できなかったのだと思われます。
それは次のような理由ではないでしょうか。
五感で感じ取れる見える世界を現象界と言います。対して、見えない世界のことを潜象界といいます。
潜象界がイコール気の世界となるのかどうかは分かりませんが、
私は武道や気功、さまざまな気を扱う流派でそれぞれ定義されている「気」を包括しているものと考えています。
ただ、見えない世界の動きは数値にも表すことができませんから、
その情報を他人と共有することができないのです。
過去、多くの達人技をその弟子が伝承できなかったのは、そういう理由によるのだと思います。
達人もその「気」の世界のことを伝える術がありませんでした。
五感以外の原初感覚で感知するほかない気のことを言葉では表現しきれず、
弟子の習熟度にあわせて例え話をする以外に方法がありません。
よく達人と弟子の会話で、弟子が奥義を問うと、師匠はただ円を示しただけだとかいう話が逸話として残っていますが、そこに描かれた円には、その時のその弟子以外には、なんの意味もありません。
例え話にすぎないのです。
ですが、その例え話や逸話がいつの間にか独り歩きするようになります。
そして、その例え話が様々に組み合わされて、不思議な話が作り出されて行きます。
すると、それはもう例え話でもなんでもなく、単なる空理空論でしかありません。
それが、東洋医学の世界でも起きているのです。
※以下は仮説です
そもそも気も経絡もその存在は五感では捉えられないものです。
ですから、原初感覚で気を感覚化できた者にしか、気を実感としてわからず、
使いこなすこともできませんでした。
しかし、経絡の出現には一定のパターンがあり、またその出現頻度もある程度の確率がありました。
そこで、それらの出現ポイントを示し(=経穴)、それらを結んだライン(=経絡)が描かれました。
そして、こういった症状ならこのポイント(経穴)をという指示も残されたのでしょう。
胃の症状なら足三里、肝虚と名付けられた一連の症状なら太衝などというように。
そこまでなら、経験医療として成立するかもしれません。
しかし、古代の学者はそこに理論をつくります。
それが積み重なって経絡学説が形作られて行きます。
ですが、気を感覚として捉えらえれないものにとっても、また原初感覚によって気を捉えられるものにとっても、
気の世界のことを言語化するのは非常に難しい作業だったのです。
先の達人と同じです。
だから同じ現象を説明しても、人によって違う表現をします。
が、気が見えないものにとってはそれが同一の現象を表現したものだとは分かりません。
だから、同じことなのに、まったく別な現象として取り扱われてしまいます。
それが数十年、数百年のちになると、もう真実は分かりません。
そして、それらの矛盾を埋めるために新たな仮説が考え出されます。
つまり、仮説と仮説を組み合わせて、まったくの空論を生み出すことになったのです。
これが、中医学や経絡学説の迷路です。
こうなってくると、どれが本当だったのか、どれが同じ現象を表現した仮説だったのか、
もう分かりません。
過去の文献が正しいかどうかは、もはやいくら文字を追ってもわかりません。
自分が気の感知能力を修得して一つ一つ検証していくしかないのです。
経絡を実体として感知できるなら使いこなすことができる!
当然のようにその「望診法」にのめりこみます。
しかし、問題なのはその練習法が無いこと。
しかも先生方に質問しても何となく身についた、いつの間にかできるようになっていた、という答えしか返ってきません。
これはもともと特殊な才能のある人しか修得できないものなんじゃないだろうかとも思いました。
そんな時期に、志を同じくする鍼灸師の方々が寄り集まって練習法が開発されていました。
そこから、いくつかの練習方法を活用させていただきました。
ですが、その練習後、実際の人体(被験者もしくは患者さん)で望診をし、なにかを感知したとしてもそれが正しいのどうか、わかりません(常に師匠が横で判断してくれていれば別ですが)。
治ったかどうかで判断すればよいのでは?とも考えましたが、本当に気滞の調整(経絡の調整)で治っているのか、単に自然治癒(つまり時期がきて)したのか判別できません。
どうしても練習用の明確な指標が欲しいと考え、さまざまな実験検証を始めました。
私は気の世界にしろ、その他の不思議な現象を盲目的に信じるものではありません。
すくなくとも現象として観察できなければ、まったく信用しないでしょう。
ただ、気や経絡については施術を通して存在の可能性を追求してみる価値はあると思いました。
気は潜象界(目に見えない観察できない世界)のものであり、現象界(目で見える、観察可能な世界、物質の世界)と表裏一体で存在していると言われています。
もちろん、それが本当かどうかも今は分かりません。
さて、独習、検証用の方法ですが、いろいろな事を試してみました。
それこそ人体から非生物までいろいろです。
なかにはかなりぶっとんだ(ばかげた?)実験もありました。
植物、写真などから気を見ることから始まり、競輪や大相撲の勝負の前に選手や力士を望診し、気の流れで勝敗を読もうとしたこともありました。
ただ、それらのの実験検証で得られたデータ、そこから得られた情報によって「気の世界」、あるかどうかわからない潜象界へのアプローチ方法が分かってきました。
それは、誰もが持っている原初感覚を呼び覚ます練習方法です。
そして、その能力は生まれながらに誰しもが持っている能力ですから、特別な天才でなくても、例えば私のような凡人でも練習すれば「気を感知できる望診」が出来るようになるという結論にいたりました。
私はまったく未知の「気の世界」への手がかりを見つけたと思っています。
そして一気に世界観が変わりました。
いままでの疑問点が解決していくのを実感しました。
「人によって、診断が一致しない、違う治療をしても良くなっていくのはなぜ?」
「脈診の名人と言われている先生たちでも、脈による診断は一致しないのはなぜ?」
「ただの刺激鍼でも、経絡治療でも同じように治る場合があるのはなぜ?」
「スポーツ外傷でも接触鍼でかなりの効果を発揮するのはなぜ?」
「整体で経絡が整うのはなぜ?」
「整体において整復の角度と方向性をどうやってみつけるんだろう?」
「相手の立ち姿を見ただけで歪みのポイントがわかるにはどうしたらいい?」
「なんど整体しても歪みがとれないのはなぜ?」
いま、新しい気の世界という未知の領域が広がったのです。
これは私の説ではありませんし、また伝承が残されていない以上、すべてが仮説としか言えないのですが、以下のような歴史をたどっていると思われます。
数千年前、経絡はそもそも「気の感知能力」を持った人たちによって発見、整理されてきたと思われます。
その感知能力を古伝の望診法と言いいます。
なぜ、そんな能力者がいたと思うのかということですが、理由は経絡発見の過程がまったく伝承されていないからです。
つまり当時は気や経絡が感知できる(見える)ことがあたりまえであったため、あえてその記載をする必要がなかったからだという説です。
この能力者は古代においてシャーマンとして活躍していた人たちではないかということです。
しかし、時代が下るとともにシャーマンを怪しげに思う為政者やその他の人々、またそういった能力を持たない人たちによって排除されていった。
だが、その人たちの医療の知識と経験は必要とされたため、目に見える形で経絡図が残され、またその経絡の活用法として東洋医学が発展形成されたということです。
つまり、経絡図が最初にあり、それを運用するためにあとから理論が構築されていったのです。
だから、東洋医学の理論にはさまざまな矛盾点が生じているのではないでしょうか。
また、「見えない」人達にとっては気の感知能力である古伝望診法は必要なかったため、伝承する必要がなかった。
そして、古伝の望診法はいつしか歴史から消えていったということらしいです。
ここで疑問です。
古伝の望診法は現代においては一般的ではありません。
それどころか、ほとんど認知されていない、消滅状態といっても良いでしょう。
なぜ、伝承されなかったのか。本当に望診法の歴史(仮説ですが)のように消えていったのでしょうか。
ですが、まったく伝承が残っていない、というのが不思議でしょうがありませんでした。
経絡は東洋医学の根幹をなす最重要学説です。それなのに、その発見の過程やその感知方法が残されていないのはおかしくないでしょうか。
たとえ為政者がどんなに権勢をふるって過去の文化を排除しようとしてもどこかに伝承されていくものでしょう。
事実、仙術や道教の呪術、古伝の中国拳法や古代の思想などは、どこかに伝承の記録が残されているものです。
どんなに怪しげなものでもちゃんと伝承されています。
なのに古伝の望診法については伝承記録が残っていない。
その能力者自体が減少したとしても、やはりなんとかして残そうと努力するものではないでしょうか。
それが、ほとんど痕跡も残さず消えてしまったのは他の理由があるのではないでしょうか。
私は他の説を考えるようになりました。
それは能力者みずからが伝承の必要を感じなかったから、という理由です。
つまり、消されたのでもなく、自然淘汰され消えていったのでもなく、自らが残さなかった、別の言い方をすると残す必要がなかったということです。
経絡とはなにか?気の通り道だということですが、では「気」とはなんでしょうか。
さまざまな検証をしているうちにある考えが浮かびました。
それは気や経絡は観察者(施術者)によって見せる姿が違うのでは?という考えです。
もし気が量子のような存在だったら?人間原理ではありませんが、観察者によってその姿形を変えるものだとしたら?
観察者が気の存在を知らない、もしくは信じていない場合感知すらされない。
そこに経絡は存在しない、それもまた正しいとしたら。
観察者の能力、つまり修得した施術方法(鍼灸、経絡治療、整体、漢方薬ほか)や、その修得レベルによってその形を変えるとしたら。
だとしたら、つまり経絡を伝承すること自体が無意味なのです。
なぜなら経絡はある、とも言えるし、無いとも言える、そしてそのどちらも正しい。
また観察者(施術者)の状態によっては必要になる経絡が違う、つまり施術者によって証(あかし)が変わり、治療点も変わる。
とするなら、他人の経験は共有できず、同じ土俵で経絡治療を議論、修練することが無意味です。
つまり現代に残る、いわゆる「経絡」は、実は存在していないとも言えます。
以前だったら考えもしない、そんなとんでもない考えが頭に浮かびました。
しかしそう考えると、いろいろなことにつじつまが合うのです。
同じ証(あかし)に対して相反するような治療でなぜ効果がでるのか?
そもそも、同一人物に対して相反するような証(あかし)がでてくるのはなぜか?
同門の経絡治療家でありながら、こんなにも施術方法が違うのはなぜか?
ストレッチや整体でも経絡、脈が整うのはなぜか?
脈が改善(いわゆる良い脈)になっているのに症状が改善しないのはなぜか?
超一流といわれた経絡治療家に施術していただいても効果に差があるのはなぜか?
経絡治療とは、そもそも経絡を整えるとはいったいなんなのでしょう?
経絡とは定型的なものではなく、施術者によってその姿形を変えるのだとしたら、それらすべての疑問点にある答えがでてきます。
経絡は不定型であり、経絡も経穴も無数に存在するが、出現頻度の高いものをまとめたものが、現存する経穴図、経絡図であろうと考えられます。
したがって、新穴や新経絡はいくらでも生まれる素地があると思われます。
経絡経穴は観察者(施術者)の能力によって、その見せる姿を変えると思われます。
また、同様の患者をみても整体師と鍼灸師ではその感知できる経絡は違いを見せると思われます。
同じ鍼灸の修得者同士でもその修得技法によっては感知できる経絡、経穴は違います。
また同じ施術者でもその修行時期、修得技術のレベルにより把握できる経絡経穴は違います。
したがって経絡の調整技術を体系的にまとめることは不可能であり、またその経験を共有することもできないと考えられます。
国や時代、流派によって経絡図が違うのはそのせいでしょう。
それらの理由から経絡、経穴の歴史、その調整技術は文字として伝承されなかったのではないでしょうか。
すべては感覚の世界であるからです。
しかし、その世界は確かに存在します。
この気の世界、望診法の世界をあなたも学んでみませんか?
当会の勉強会は通信講座制と合わせて実地講習会の開催をしております。
以下、勉強会のご案内です。
当会では有川貞清先生の残された始原東洋医学を基礎としております。
その修得メソッドの練習および、気と経絡の実践検証を主たる活動内容としております。
学ぶ内容は望診技法(気流診)とそれを実際の施術で活用するための、ていしん技法、和伝整体技法となります。
主催 東洋医療技術研究会
本部 石川県金沢市保古町101
代表 勝木れい子
勉強会会場 石川県加賀市 よしだ整骨院内(会場は変更されることあり)
期間 基本的に入会から14か月間 その後の延長は任意で無期限
勉強内容 気流診(古式望診技法)
ていしん技法(奇経治療含む)
その他 毎月の症例報告、講師による望診による気滞判別
参加特典 毎年変わります!(令和3年度の特典はまだ未定)
参加費用 初月 入会金、教材費他 合計26800円
次月以降 4800円
実技講習会参加費 上記費用とは別途 1回1万円・・・参加は強制ではありません、自由参加です。
※初月に気流診に関する教材一式はすべてお渡しします。なお、1か月目で退会されても返品の必要はありません。以降、独学で十分と思われる方は1か月目で退会されるのも自由です。
入会後は修得まで学んでいただき、望診ができるようになれば半年でも1年目でも自由に退会していただいてもかまいません。
このあたりは有川貞清先生の方針と同じです。
できるようになったなら、そのあとそれをどのように応用していくかは各個人の自由です。
もちろん3年目、4年目とお付き合いいただくのも自由(笑)
実地講習会は参加自由ですので、必要に応じて参加してください。
※基本月に1回ペースで開催していましたが、昨年はコロナで開催できませんでした(残念です)。
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